住まいの中には、さまざまな居場所があります。
私は、木漏れ日の差し込む場所が好きです。
縁側のような場所も好きですし、庭を眺めながら過ごす時間も好きです。
ほのかに薄暗い場所にも、なぜか惹かれます。
考えてみると、私の好きな居場所はどれも「あわい」にあります。
完全な屋内でもなく、完全な屋外でもない。
明るすぎず、暗すぎもしない。
閉じてもいなければ、開きすぎてもいない。
そうした場所に身を置くと、不思議と心が落ち着き、豊かな気持ちになります。
人は、本来「あわい」の中で生きているのかもしれません。
朝と夜のあわい。
季節とうつろいのあわい。
人と人とのあわい。
自然と暮らしのあわい。
私たちの日常は、はっきりと分けられるものばかりではなく、その中間にある曖昧さの中で成り立っています。
だからこそ私は、建築の中にも「あわい」が必要だと思うのです。
私が設計する住宅は、内と外をきっちりと分けるのではなく、そのあいだにある居場所を大切にしています。
光がにじみ、風が抜け、庭の気配が感じられる場所。
そこは単なる通路でも、部屋でもありません。
人の感情や時間を静かに受け止めるための居場所です。
建築とは、風土と暮らしのあわいを整える行為なのかもしれません。
藤原昌彦
私は均質な空間に、少し息苦しさを感じることがあります。
もちろん、明るく快適で、どこにいても同じ環境で過ごせることは悪いことではありません。
むしろ現代の建築が目指してきた大切な価値の一つだと思います。
けれど、なぜか長く居たいとは思えない。
なぜだろうか。
考えてみると、均質な空間には「揺らぎ」が少ないからではないかと思うのです。
あるいは、時間の流れが見えにくいからかもしれません。
人は無意識のうちに、変化するものに惹かれています。
風に揺れる木々。
ゆっくりと流れる雲。
木漏れ日。
移ろう光。
そこには常に小さな変化があり、静かに時間が流れています。
一方で、均質な空間は変化が少ない。
整っている。
快適である。
けれど、その状態がどこまでも続くことで、知らず知らずのうちに緊張感を生んでいるのかもしれません。
自然素材が心地よく感じられるのも、そのためでしょう。
木には一本ごとに異なる木目があり、色味にも個性があります。
左官壁も同じです。
均一に見えても、人の手によるわずかな揺らぎが残っています。
そうした不均一さは、空間に奥行きや表情を与え、私たちの感覚を静かに刺激してくれます。
開口部のあり方も同様です。
ただ大きな窓を設ければよいわけではありません。
その先に何があるのか。
風に揺れる樹々があるのか。
季節ごとに表情を変える庭があるのか。
空の移ろいを映し出す風景があるのか。
そうした変化を受け止める対象があってこそ、窓は時間を映す装置になります。
均質な空間が苦しいのは、快適性が足りないからではない。
そこに時間の流れや自然の気配、そして人の感覚を受け止める揺らぎが少ないからなのかもしれません。
私は建築の中に、そうした揺らぎを残しておきたいと思っています。
それは不便さをつくるためではなく、人が時間を感じながら豊かに暮らすために必要な余白なのだと思うのです。
藤原昌彦
余白について考えることがある。
暮らしの余白。
時間の余白。
空間の余白。
光の余白。
私たちは日々、様々な余白の中で暮らしている。
一方で、余白には「無駄」という意味も含まれている。
必要以上の空間。
使われない時間。
効率だけを考えれば、省いてしまってもよいものかもしれない。
もちろん、無駄をなくし、効率よく物事を進めることは決して悪いことではない。
しかし、人が暮らし、生きていく上では、その「無駄」と思われる部分こそが大切なのではないかと思う。
例えば、縁側やデッキに座って庭を眺める時間。
木漏れ日を眺めながらぼんやり過ごす時間。
目的もなく窓の外を見つめる時間。
それらは効率だけで考えれば無駄な時間かもしれない。
けれど、その時間があるからこそ気持ちが整い、心にゆとりが生まれる。
余白とは、無駄ではなく、余裕やゆとり、そして豊かさなのだと思う。
効率や合理性が求められる時代だからこそ、人が人らしくあるために、余白は必要なのではないだろうか。
藤原昌彦
樹々の葉が生い茂る季節になると、なぜか木の下に座りたくなる。
屋根のように完全に覆われているわけではない。けれど、不思議と落ち着く場所である。
葉と葉のあいだから差し込む光は、地面や壁に模様を描く。
風が吹けば葉が揺れ、その隙間から漏れる光もまた形を変える。
同じ場所にいても、同じ景色はひとつとしてない。
そこには時間があり、風があり、季節がある。
私は、木漏れ日の魅力はこの「うつろい」にあるのではないかと思っている。
均一な光ではなく、刻々と表情を変える光。
木漏れ日は、ただ空間を明るくするためのものではなく、光そのものが風景の一部として存在している。
そしてもう一つ、木漏れ日には安心感がある。
樹々の葉がつくる屋根の下で守られながら、外の空気や風を感じることができる。
そこには、開放感と安心感が共存している。
だからこそ人は、木陰に身を置きたくなるのかもしれない。
木漏れ日は、私たちに時間の流れや自然のうつろいを感じさせながら、人の感覚を静かに整えてくれるのである。
藤原昌彦
幼少期、実家の縁側は、自分にとって心地の良い居場所でした。
遊ぶ時も、勉強をする時も、昼寝をする時も、気がつくと縁側で過ごしていた記憶があります。
暑い日は窓を開け放ち、風や光、庭の気配を感じながら過ごしていました。
最近では、キャンプを楽しむ機会も増えました。
完全に屋外へ身を置き、自然の中で過ごす開放感は、とても気持ちの良いものです。
その一方で、完全に屋外であるがゆえに、どこか守られていない不安感も感じます。
キャンプのように一時的に過ごすには心地良いのですが、日常の暮らしとなると、やはり安心感のある居場所が必要なのだと思います。
だからこそ、縁側や軒下のような「半戸外」の存在が大切なのではないかと感じています。
完全に外でもなく、完全に内でもない場所。
守られている安心感がありながら、風や光、気配が静かに通り抜けていく。
私は、こうした“あわい”のある居場所に、人は本能的な心地よさを感じているのではないかと思っています。
幼少期、実家の縁側が自分の居場所であり、心地の良い居場所でした。
遊ぶにも、勉強するにも、昼寝をするにもこの心地良い居場所で過ごしていた。
暑ければ窓を開け放ち、屋外を感じながら楽しんでいました。
最近では、キャンプを楽しみで、完全に屋外に身を置き全開放する楽しさがある反面、完全に屋外のため守られない不安感が強くなります。キャンプのような一時的な場合は良いのですが、暮らすとなると一定の安心感が必要になってきます。
暮らしの「場」に縁側や軒下空間があることは、完全に外ではなく、完全に内でもない場所が大切なのではないかと思っています。
守られている安心感がありながら、光や風、気配が静かに通り抜けていく。
私は、こうした”あわい”のあるような居場所が、人が本能的な心地よさを感じているのではないかと思っている。
藤原昌彦
なぜか、心惹かれる空間がある。
特別な仕掛けがあるわけでもなく、
強いデザインがあるわけでもない。
ほのかに暗く、
光が届きそうで届かない場所。
そのような空間に身を委ねると、
不思議と心が落ち着いていく。
光と闇の「あわい」に、
静かな居場所が生まれる。
光のグラデーションが生まれ、
うつろいの中に、やわらかな暗がりがつくられる。
すべてが見えないことで、
意識は外側ではなく、内側へ向かう。
だからこそ人は、
暗がりの中に安心感や奥行きを感じるのかもしれない。
藤原昌彦
先日、ホームランディックさんに「天城台の家」を丁寧に取材いただいた動画が公開されました。
動画はこちらから 天城台の家
その動画では、語りきれなかったことを少し書いてみたいと思います。
取材の中で、特に伝えきれなかったのは「光」についてです。
言葉で説明するよりも、まずは映像に映る光を感じていただきたいと思い、あえて多くは語りませんでした。
本来、光というものは、その空間に身を置いてこそ感じられるものだと思っています。
それでも、映像を通して少しでも伝われば嬉しく思います。
この住宅で考えていた光は、包み込むような穏やかな光です。
朝は、身体を静かに目覚めさせるような爽やかな光。
日中は、居場所をやさしく包む落ち着いた光。
夕方には、陰影とともにゆっくりとうつろい、空間に静かな余韻を残していく光。
私の設計では、屋外空間のあり方は欠かすことのできない要素です。
「天城台の家」では、芝生が広がる風景の中に住まいが静かに佇む姿を思い描きながら、屋外と暮らしを一体として設計していきました。
この敷地は少し高台にあり、どこか草原の中にいるような伸びやかさがあります。
東側には、ため池の風景が穏やかに広がり、朝のやわらかな光が室内へと届いてきます。
その風景に向かって、半戸外のベンチスペースを設けました。
外でも内でもない、その曖昧な場所に身を置きながら、風や光、季節の気配を静かに感じる。
ふと力を抜き、ほっと一息つける居場所です。
建築とは、光を単に取り入れることではなく、
「光と暮らしの距離を整えること」なのかもしれません。
もしよければご覧ください。 「天城台の家」YouTube
藤原昌彦
私には、長く大切に使っているものが多くあります。
スケッチをするときの鉛筆や修正用のペン。
いつも座っている椅子。アトリエに飾っている絵。
高価なものもあれば、決して高価ではないものもあります。
けれど、愛着のあるものには共通して、「手の痕跡」が残っているように思います。
長く使い続けた時間や、苦労した記憶、迷いながら向き合った過程。
そういったものが積み重なることで、単なる“物”ではなく、自分にとって特別な存在になっていくのではないでしょうか。
住宅設計も同じだと感じています。
おかげさまで、これまで多くの住宅を設計させていただきましたが、簡単にできた住宅は一つもありません。
プランに悩み、素材に悩み、光の取り入れ方に悩む。
そして何より、多くの場合はコスト面で悩みます。
時には、それらが複雑に絡み合い、「産みの苦しみ」のような時間になることもあります。
しかし、その苦しみをクライアントと共有し、乗り越えながら完成に辿り着いた時の喜びは、何にも代え難いものがあります。
以前は、設計や金額に関する悩みを、できるだけクライアントに見せないようにしていました。
けれど、コロナ以降の社会情勢や建築費の変動を考えると、金額についてはできるだけオープンに共有しながら進める必要があると感じています。
設計の初期段階では、全体予算を踏まえながら計画を進めます。
ただ、設計が深まるにつれ、「より良い空間にしたい」「もう少し豊かな暮らしを提案したい」という思いが強くなり、結果として当初予算を超える提案になることも少なくありません。
例えば、最初に想定していた予算が100%だとすると、初回見積りでは150%ほどの内容になっていることもあります。
そこから、予算に近づけるために減額提案を行っていきます。
減額と言っても、単純に安いものへ置き換えるだけではありません。
造り方を整理したり、優先順位を見直したりしながら、本当に大切なものを残していく作業です。
その際、多くの方が不安になるのが、「減額したことで、バウムスタイルアーキテクトらしい住宅ではなくなるのではないか」ということです。
ですが、私が大切にしているのは、空間の骨格や光の質といった、本質的な部分です。
多少素材が変わったとしても、設計に込めた思想や、空間の質そのものが失われることはありません。
むしろ、悩みながら取捨選択を重ね、目指す暮らしを共有しながら完成した住宅には、深い愛着が宿るのではないかと思っています。
そして、完成後も少しの不便さを工夫しながら暮らしていく。
その積み重ねによって、さらにその住まいは、自分たちだけの場所になっていくのだと思います。
少し予算を超えていたとしても、手の届く範囲であれば、ほんの少し背伸びをしてでも手に入れてほしい。
そんな思いもあります。
少し高価な服を買った時、自然と背筋が伸びる感覚があります。
大切に着ようと思う気持ちも生まれます。
住宅も同じです。
単に「予算に合わせる」のではなく、少し背伸びをしてでも、本当に良いと思える空間を手に入れることで、暮らしそのものが少しずつ変わっていくのではないでしょうか。
もちろん、様々な工夫の結果として予算内に納まることは、とても良いことです。
けれど、その過程で悩み、考え、選び取った時間こそが、住まいへの愛着を育てていくのだと思います。
藤原昌彦
日々の中で、「気持ちの良い人だな」と感じる方がいます。
そうした方に共通しているのは、特別な何かではなく、ごく当たり前の所作の美しさです。
挨拶が自然で、言葉に無理がない。
身だしなみも、華やかさではなく、きちんと整えられている。
高価なものを身につけているかどうかではなく、清潔であること、整っていること。
そこに、その人の在り方がにじみ出ているように感じます。
空間も同じではないでしょうか。
良い家具や素材は、確かに空間の質を高めます。
しかしそれ以上に、整えられていること、秩序が保たれていることが、空間の印象を決定づけます。
物が過不足なく置かれ、掃除が行き届いている。
使われたものが、元の場所に静かに戻されている。
そうした状態は、派手さはなくとも、確かな心地よさを持っています。
それは設計以前の、暮らしの姿勢の問題でもあります。
私自身、特別なことをしているわけではありませんが、
朝起きたときにベッドを軽く整え、パジャマを畳み、靴を揃える。
そうした小さな行為を、日々の中で繰り返しています。
ほんの些細なことですが、その積み重ねによって、空間の状態は確実に変わっていきます。
整えられた状態から一日を始めることで、気持ちも自然と整っていくのを感じます。
整えるという行為は、暮らしを丁寧に扱うことに他なりません。
そしてその丁寧さが、やがて空間にあらわれ、空気の質を変えていきます。
美しい空間は、特別な操作によって生まれるものではなく、
日々の小さな積み重ねの中で育まれていくものだと思います。
気持ちの良い人がいるところには、気持ちの良い空間があり、
気持ちの良い空間は、また人の在り方を整えていく。
その静かな循環を、大切にしていきたいと感じています。
藤原昌彦
桜が満開となり、すっかり暖かく、心地よい季節になりました。
先日、埼玉で設計を行っている友人の完成したばかりの住宅を見学するため、関東を訪れました。
世代も近く、同じ建築を志す者として、仲間であり、同時にライバルでもある友人の設計した住宅を見ることは、いつも多くの学びがあります。
その流れで、ライフワークでもある建築散歩へ。
今回は、岡山県庁舎や天神山プラザ、林原美術館を設計した前川國男の最初の自邸と、梅田スカイビルや京都駅で知られる原広司が手がけた egg cafe / egg park を見学することができました。
前川國男邸は1942年に建てられた住宅で、80年以上前の建築です。
しかし内部空間は非常に先進的で、今なお新鮮な刺激を受ける空間でした。
一方、原広司さんの建築は、これまで大きな建築を体験してきたこともあり、私自身にとっては少し意外なほど、驚きと感動のある建築体験となりました。
どちらの建築にも共通して感じたのは、「普遍性」です。
時間が経過しても空間の新鮮さが失われず、人の心を揺さぶる力を持ち続けている建築でした。
流行や新しさではなく、空間の質そのものが時間に耐えている。
そういう建築に触れるたびに、建築にとって本当に大切なものは何かを考えさせられます。
自分の目指す建築の在り方を、あらためて体験することができました。
これからも目を養い、建築に向き合い続けていきたいと思います。
藤原昌彦