藤原の日記Blog

夏を告げる音

藤原の日記

今朝、今年初めてセミの声を聞きました。

梅雨が明け、本格的な夏の始まりです。

カレンダーを見る前に、耳が季節の変化を教えてくれる。
そんな瞬間が私は好きです。

住まいは、こうした季節の移ろいを感じられる場所であってほしいと思っています。

朝、窓を開けると聞こえてくるセミの声。
庭の木々が風に揺れる音。
夕方になると少しだけ涼しくなる空気。

冷暖房の効いた快適な室内も大切ですが、それだけでは季節は感じられません。

窓を開けたくなること。
庭に目を向けたくなること。
ふと耳を澄ませたくなること。

そんな小さなきっかけが、暮らしを豊かにしてくれるのだと思います。

建築は、ただ暑さや寒さを防ぐための器ではありません。

四季の変化を受け止め、人の感覚を少しだけ豊かにしてくれる場所でもある。

今年最初のセミの声を聞きながら、そんなことを考えた朝でした。

藤原昌彦

家具も、建築の一部

藤原の日記

私は北欧家具が好きです。

アトリエにもいくつかありますが、中でもお気に入りはCH24、通称Yチェアです。

もちろん、それだけではありません。

ハンス・J・ウェグナーをはじめ、ボーエ・モーエンセン、フィン・ユール、アルネ・ヤコブセンなど、多くのデザイナーが、時代を超えて愛される家具を生み出してきました。

私が北欧家具に惹かれるのは、デザインの美しさだけではありません。

木という素材を知り尽くした使い方。
細部まで丁寧につくられた加工技術。
そして何より、何十年経っても古さを感じさせない普遍性があります。

使い込むほどに木肌に艶が生まれ、小さな傷さえも、その家具だけの表情になっていく。

そんな姿を見ていると、「良いものは、時間とともに育つ」のだと感じます。

住宅も同じではないでしょうか。

完成した瞬間が一番美しいのではなく、家族の時間が積み重なり、庭の木々が育ち、床や柱に暮らしの痕跡が刻まれていく。

そうして少しずつ、その家だけの表情が生まれていくのだと思います。

だから私は、家具を単なるインテリアとしてではなく、建築の一部として考えています。

窓辺に置かれた一脚の椅子が、その家で一番好きな居場所になることもあります。

流行は、いつか過ぎていきます。

でも、本当に良いものは、時代を超えて愛され続けます。

北欧家具は、そのことを静かに教えてくれます。

私もまた、何十年先も暮らしに寄り添い、愛着を育んでいけるような、普遍性のある住まいをつくっていきたいと思っています。

藤原昌彦

人は、動くものに目を向ける。

藤原の日記

風に揺れる木々。
流れる雲。
雨粒。
鳥が飛ぶ姿。

人は本来、そうした動きに自然と目を向ける生き物なのだと思う。

昔の住まいでは、窓の向こうに庭があり、空があり、風景があった。
だから、ふとした瞬間に外へ視線が向かっていた。

その後、暮らしの中心にテレビが置かれるようになり、家族の視線は室内へ集まるようになった。

そして今、私たちの視線は、一人ひとりが手の中のスマートフォンへ向けている。

もちろん、それ自体が良い悪いという話ではない。

ただ、風に揺れる木々や、雲の流れを眺める時間は、以前より少なくなったように感じる。

だから私は、住宅にはもう一度、外へ視線が向かうきっかけをつくりたい。

庭の木が風に揺れる窓。
雨を眺められる軒先。
夕焼けに気づく小さな居場所。

そうした何気ない情景が、暮らしに静かな豊かさを取り戻してくれるのではないだろうか。

藤原昌彦

建築によって忘れてしまったもの

藤原の日記

古民家を訪れるたびに思うことがあります。

昔の人は、限られた材料だけで、驚くほど心地よい住まいをつくっていたということです。

茅葺屋根は、雨を防ぐだけではありません。
土壁も、ただ壁として存在しているわけではありません。

一つの素材に、いくつもの役割を持たせながら、風や光、湿気や熱と上手に付き合っていました。

そこには、自然に逆らうのではなく、自然を受け入れながら暮らす知恵があります。

現代の住まいは、性能も快適性も大きく向上しました。

それでも古民家に立つと、どこか懐かしく、心が落ち着くのはなぜでしょう。

もしかすると、私たちは便利さと引き換えに、暮らしの中の大切な何かを少しずつ忘れてきたのかもしれません。

だから私は、古民家をそのまま真似したいとは思いません。

建築によって忘れてしまったものを、建築で取り戻したい。

そんな住まいを、これからも考え続けたいと思っています。

藤原昌彦

小さな場所の豊かさ

藤原の日記

家づくりの話になると、広さや部屋数に目が向きがちです。

もちろん、広さにはゆとりがあります。
けれど、広ければ豊かになるかというと、必ずしもそうではないように思います。

昔の日本の家は、障子や襖でゆるやかに仕切られていました。

今のように壁や扉で完全に区切るのではなく、光や風、人の気配がほどよく伝わる住まいでした。

隣の部屋から聞こえてくる家族の話し声。
台所から漂ってくる夕飯の匂い。
庭を渡る風。
障子越しに見える明かり。

完全に見えるわけではない。
けれど、そこに誰かがいることを感じる。

そんな距離感の中で暮らしてきたのが、日本の住まいだったように思います。

茶の湯の世界には、「一畳十間」という言葉があります。

一畳ほどの小さな空間の中にも、十間もの広がりを感じることができるという意味です。

それは、単に視覚的な広さを表しているのではなく、人との距離や自然とのつながり、心の広がりを含めた豊かさなのかもしれません。

また、気配を感じながら暮らすことは、相手を思いやることにもつながっていたように思います。

襖一枚隔てた向こうに誰かがいるから、大きな音を立てない。

障子越しに明かりが見えるから、家族の帰りに安心する。

顔を合わせなくても、互いの存在を感じながら、少し気を遣い、少し譲り合って暮らす。

そこには、完全に一人になることでもなく、いつも一緒にいることでもない、日本人らしい距離感があったように思います。

住まいの豊かさは、広さや部屋数だけで決まるものではありません。

小さな場所であっても、庭とつながり、光や風が通り、人や自然の気配を感じられる。

そんな空間には、実際の大きさを超えた豊かさがあります。

私は、住まいとは面積を競うものではなく、人と人、人と自然との関係をやさしくつなぎ、心がゆったりと広がる場所であってほしいと思っています。

小さな場所の中で、人の気配を感じ、互いを思いやりながら暮らす。

「一畳十間」という言葉には、そんな日本人の豊かさが込められているように思うのです。

藤原昌彦

去り難い場所

藤原の日記

皆さんは、こんな経験はないだろうか。

何でもないような場所で話し込んだり、
ふと立ち寄った場所なのに、なぜだか長居をしてしまうことがある。

私にも、理由はよく分からないが、なかなか立ち去れない場所がある。

窓辺の少し腰掛けられる場所。
緑を眺めながら過ごせる食卓。
庭の木々が見える縁側のような場所。

特別な用事があるわけではない。
それでも、なぜかそこに居たくなる。

効率が求められる時代である。
住まいにも無駄のない動線や合理性が求められる。

もちろん、それらは大切なことである。

けれど私は、この一見すると無駄にも思える時間や居場所こそが、暮らしを豊かにしているのではないかと思う。

少し立ち止まる。
外を眺める。
風を感じる。
何もせずに過ごす。

そんな時間の中で、人は心を整えたり、余韻に浸ったりしているのかもしれない。

住まいは、ただ用を足すための器ではない。

用事がなくても居たくなる場所。
なかなか立ち去れない場所。

私は、そんな「去り難い場所」のある住まいをつくりたいと思っている。

藤原昌彦

つい、そこに座ってしまう

藤原の日記

アトリエには、「つい、そこに座ってしまう場所」がある。

朝、コーヒーを片手に窓の外を眺める場所。
本を持って、少し腰を下ろす窓辺。
何をするわけでもなく、庭の木々の揺れをぼんやりと眺める場所。

特別な家具が置かれているわけでもなく、誰かに決められた席でもない。

それでも、気がつくと、そこに座っている。

私は、その理由のひとつに、「光のたまり」をつくるようにしているからではないかと思っている。

朝のやわらかな光。
障子を通して広がる、ほのかな明るさ。
木漏れ日のように揺れる影。
夕暮れ時の、少し寂しさを含んだ光。

光は、ただ部屋を明るくするためだけのものではない。

窓の大きさや高さ。
どの方向から光を迎え入れるのか。
その先に、どのような風景が広がっているのか。

ほんの少しの違いで、その場所の居心地は変わっていく。

設計をしていると、

「この場所には、どんな時間が流れるだろう」

と想像することがある。

朝日を浴びながら本を読む人。
雨の日に庭を眺めながら物思いにふける人。
家族の気配を感じながら、一人の時間を過ごす人。

そんな何気ない日常の風景を思い浮かべながら、窓や開口部のあり方を考えている。

開口部は、光や風を取り込むためだけのものではない。

人の居場所をつくるためのものでもある。

つい、そこに座ってしまう。

そんな場所がひとつあるだけで、住まいは少し豊かになるのかもしれない。

藤原昌彦

配慮がある

藤原の日記

コンビニなどの手洗い場で、水が飛び散っていたり、手を拭いた後のペーパーが
散乱していたりすることがある。

そのままにすることもできる。もちろん、店員さんが定期的に掃除をするのだから、
放置しても大きな問題にはならないのかもしれない。

それでも私は、自分が使った後はできるだけ綺麗な状態にしておきたいと思う。
限界はあるのだけれど、次に使う人が気持ちよく使えるように。

そこには「配慮」がある。

誰も見ていないし、感謝されることもない。

それでも、こうした小さな配慮が自然にできる人に出会うと、大切な資質がある人だと感じる。

設計やデザインは、形をつくることではない。

その先で使う人、目にする人、そこで過ごす人のことを想像することから始まる。

どのようなものがあれば心地よいのか。
どのような順番で組み立てれば使いやすいのか。
どのような距離感なら安心できるのか。

ものづくりの根底には、いつも人への思いやりや配慮、そして想像力がある。

多くの人は、言われてから動く。かつての私もそうだった。

けれど、建築家やデザイナーには、自ら気づき、考え、動く人が多いように思う。

自分で気づいて行動することは「姿勢」であり、言われて行うことは「作業」である。

ほんの少しの配慮に気づき、自分から動く。

そんな姿勢を持つ人が増えれば、世の中はもう少し気持ちよく、豊かなものになるのではないだろうか。

藤原昌彦

みんなで集まって、にぎやかに過ごす時間は楽しい。

藤原の日記

気配みんなで集まって、にぎやかに過ごす時間は楽しい。

けれど、ときには一人になりたい時もある。

誰もいない場所に身を置くと、最初は気楽なのだが、しばらくすると不思議と寂しさを感じる。

一人にはなりたい。

けれど、人の気配は感じていたい。

気配を感じると、なぜだか安心する。

私は、住まいにとってこの「気配」がとても大切だと思っている。

気配とは、人と人との距離だけではない。

庭の木々が風に揺れること。

台所から聞こえる食器の音。

障子越しの光。

時間の移ろい。

そうしたものもまた、気配の一部である。

近づきすぎれば「存在」となり、

遠ざかりすぎれば「気配」は消えてしまう。

人は、人そのものを求めているのではなく、

気配を求めているのかもしれない。

完全につながりたいわけでもない。

完全に一人になりたいわけでもない。

気配を感じながら、自分の時間を過ごしたい。

住まいとは、その絶妙な距離を受け止める器なのだと思う。

家族とのあいだにある距離。

庭とのあいだにある距離。

外の風景とのあいだにある距離。

その「あわい」に気配が宿るとき、住まいはただの箱ではなく、心の居場所になるのではないだろうか。

藤原昌彦

雨の日の居場所

藤原の日記

今日は、梅雨の中休みのような気持ちの良い一日だった。

青空が広がり、風も爽やかで、本当に過ごしやすい。

けれど、こんな日にふと雨の日のことを思う。

雨は憂鬱だと言われることが多い。

確かに建築の仕事をしていると、現場は止まるし、予定も変わる。

できれば晴れて欲しいと思うことも多い。

それでも私は、雨の日が嫌いではない。

アトリエ「南区の離れ」にいると、そのことをよく感じる。

軒先から落ちる雨粒。

雨に濡れた庭の木々。

樋を流れる雨の音。

いつも見ている庭なのに、雨の日には少し違って見える。

雨が降ることで、景色が静かになる。

時間もゆっくり流れる気がする。

晴れた日は外へ出たくなる。

けれど雨の日は、なぜだろう。

椅子に座って庭を眺めたり、本を読んだり。

少しだけ自分と向き合いたくなる。

住まいも同じなのかもしれない。

晴れの日だけが心地良いのではなく、

雨の日にも居たくなる場所があること。

雨音を聞きながら過ごせる場所があること。

そんな住まいは、きっと豊かな住まいなのだと思う。

梅雨の季節になると、そんなことを考える。

藤原昌彦