藤原の日記Blog

涼しさの向こう側

藤原の日記

八月も終わりに近づき、朝夕の光や虫の声には、わずかに季節の変化を感じるようになりました。

それでも、日中はまだ厳しい暑さが続いています。
エアコンなしでは過ごせない日も、しばらく続きそうです。

エアコンに使われているヒートポンプは、室内の熱を外へ移動させることで、部屋を涼しくしています。

室内を冷やす一方で、室外機からは、室内から運び出した熱に加え、機械を動かすために使ったエネルギーも、熱となって外へ放出されます。

私たちが室内で涼しさを得るほど、建物の外には熱が吐き出されている。

一つひとつは小さなことかもしれませんが、街の中で多くの建物が同じことをすれば、外部の暑さをさらに厳しくする一因となります。
暑いから冷房を使い、その冷房がまた外を暖める。そこには、現代の暮らしが抱える矛盾があります。

もちろん、この暑さのなかで、無理にエアコンを使わずに暮らすことは現実的ではありません。
大切なのは、使うか使わないかではなく、建築によって冷房への依存を少しでも減らせないかと考えることだと思います。

そのことを考えるとき、古民家に残された暮らしの知恵から学ぶことは少なくありません。

深い軒で夏の強い日差しを遮り、建具を開ければ風が通り抜ける。
縁側や土間といった内と外のあいだの空間が、外部の熱を直接室内へ入れないための緩衝帯にもなっています。

そして、古民家を形づくる土壁や木といった自然素材も、室内の温熱環境を穏やかに整える働きを持っています。

厚みのある土壁は、外から伝わる熱を蓄え、室内へ届くまでの時間を遅らせます。
昼間の強い熱がすぐに室内へ伝わらず、温度の変化を緩やかにしてくれるのです。また、湿気を吸ったり吐いたりする性質があり、蒸し暑い日本の夏において、室内の湿度変化を和らげる役割も果たします。

木もまた、熱を伝えにくく、触れたときに極端な熱さや冷たさを感じにくい素材です。
湿度を調整する性質とともに、室内の空気や人の身体に、やわらかな感覚を与えてくれます。

土や木は、機械のように室温を一定に保つものではありません。
しかし、温度や湿度の急激な変化を受け止め、室内の環境を穏やかにしてくれます。

古民家の良さは、単に古い姿や懐かしい意匠にあるのではありません。
その土地の気候を受け入れ、自然の力を借りながら、暑さや寒さと折り合ってきた建築そのものにあります。

設備の力を借りながらも、すべてを設備だけに委ねない。
土や木の働きを生かし、光や風、陰影を整えることで、必要となるエネルギーを少しでも小さくしていく。

夏の終わりに残る厳しい暑さは、古い建築に残された知恵を、これからの住まいへどのように受け継いでいくのかを、あらためて問いかけているように思います。

藤原昌彦

迎えるための設え

藤原の日記

お盆は、先祖の霊を家に迎え、
ともに時間を過ごす日本の大切な風習です。

迎え火を焚き、盆提灯を灯し、
花や季節のものを供える。

地域や家によって、その作法は少しずつ異なりますが、
そこには、目には見えない存在を敬い、
家族の記憶を受け継いでいく文化があります。

かつての日本の家には、
こうした営みを受け止める場所がありました。

仏間や床の間を整え、
襖を開けて座敷をつなぎ、
縁側から親戚や近所の人を迎える。

住まいは日常生活の器であると同時に、
季節の行事や人の集まり、
祈りや感謝を受け止める場所でもありました。

現代の住宅では、暮らし方の変化とともに、
仏間や座敷を設けることは少なくなっています。

しかし大切なのは、
かつての形をそのまま残すことではなく、
そこに込められてきた意味を受け継ぐことだと思います。

家族が集まれる場所。
花を飾り、静かに手を合わせられる場所。
亡くなった人のことを思い出し、語ることのできる時間。

お盆という風習は、
今を生きる私たちもまた、
長く続いてきた時間の中にいることを教えてくれます。

新しい住まいをつくるときにも、
便利さや新しさだけを求めるのではなく、
日本の暮らしの中で大切にされてきた文化を、
次の世代へ手渡すための設えを考えていきたいと思います。

藤原昌彦

異なるものが出会うところ

藤原の日記

私は、建築を考えるときに「あわい」という言葉を大切にしています。

「あわい」と聞くと、縁側や軒下のような、内と外の中間にある場所を思い浮かべる方も多いかもしれません。

しかし、私が考える「あわい」は、中間領域そのものではありません。

中間領域は、建築によってつくられる具体的な場所です。一方で「あわい」とは、異なるものが出会い、互いに影響し合うことで生まれる関係のことだと思っています。

風土と暮らし。
自然と人間。
過去と現在。
光と影。
人と人。
そして、居場所と居場所。

それぞれは、はっきりと分けられるものではありません。一方がもう一方へと少しずつ滲み出し、重なりながら、絶えず関係を変えています。

庭の木々が室内に影を落とし、その揺らぎから季節や風を感じる。

古い柱に残された傷から、そこで営まれてきた暮らしを想像する。

家族の姿が見えなくても、音や気配から、その存在を感じる。

こうした異なるものが出会うところに、「あわい」は生まれます。

また、一つひとつの居場所も、それだけで成り立つものではありません。

食卓と窓辺、居間と庭、家族が集う場所と一人で過ごす場所。それぞれの居場所が緩やかにつながり、互いの気配や光景を受け渡すことで、暮らしに奥行きが生まれます。

「あわい」には、決まった形がありません。

縁側や軒下があれば生まれるものでもなく、図面に線を引けばつくれるものでもありません。

建築が風土や人の暮らしを受け止め、時間とともに関係が育まれていくことで、初めて立ち現れてくるものだと思います。

建築が完成したときに、すべてが決まっているのではない。

光や風、季節の移ろい、人の営み、そして積み重なる時間。それらを受け入れる余地を残しておくことで、建築と暮らしの間に新たな関係が育っていきます。

私は建築によって何かを強く主張するのではなく、異なるものが出会い、互いの存在を感じられる関係をつくりたい。

その目には見えないつながりが、暮らしを静かに豊かにしてくれるのだと思います。

藤原昌彦

時間の重さと向き合う

藤原の日記

古民家の設計は、難しい。

何十年、時には百年以上もの時間を受け継いできた建物に、自分の設計を重ねていく。

柱や梁に残る傷。
煤によって黒くなった木。
何度も開け閉めされてきた建具。

そこには、図面には描くことのできない、人の暮らしと時間が刻まれています。

新築であれば、何もないところから自分たちの考える空間をつくることができます。

しかし古民家では、すでにそこにある歴史と向き合わなければなりません。

何を残し、何を変えるのか。
どこまで手を入れ、どこから建物に委ねるのか。

古いものを残せば良いわけでもなく、すべてを新しくすれば良いわけでもありません。

残すことが、かえって過去を飾り物にしてしまうこともあります。
新しい意匠を加えることで、建物が長い時間をかけて得てきた静けさを壊してしまうこともあります。

だからこそ、古民家の前では慎重になります。

自分の設計が、この建物に積み重なった時間よりも前に出てはいないか。
新しく加えるものが、これまでの歴史を受け止められているか。

その判断に、明確な正解はありません。

歴史と現在。
残すことと変えること。
昔の暮らしと、これからの暮らし。

その間にある「あわい」を探しながら、一つひとつ決めていきます。

古民家の設計とは、過去を美しく見せることではありません。

積み重なった時間の重さを受け止め、その続きを静かに描くこと。

難しさを感じ、迷い続けること自体が、歴史と対話するということなのかもしれません。

藤原昌彦

遠くを見るための窓

藤原の日記

今日は、海の日。

海を眺めていると、時間を忘れてしまうことがある。

波の動きを追っているようで、実際には何かを見ているわけでもない。
ただ、水平線の向こうへ視線を預けている。

以前、父母ヶ浜を訪れた時もそうだった。

遠浅の浜辺に立ち、空を映した水面を眺めていると、気持ちが穏やかになり、心が洗われるような感覚があった。

日常では、手元を見る時間が多い。

図面を見る。
本を読む。
スマートフォンを見る。

気がつけば、視線はいつも近いところに集まっている。

だからこそ、ふと遠くを見た時に、身体も心も少し緩むのかもしれない。

住宅の窓も、光や風を取り入れるだけのものではないと思っている。

庭の木々を介して空へ視線が抜ける窓。
建物の間から、遠くの山が見える窓。
水面や田園の広がりを、静かに受け止める窓。

「天城台の家」では、高台の敷地から東に広がる溜池へと視線が抜けていく。
室内から庭へ、庭から水面へ、その先の風景へと、視線が幾つもの領域を越えていく。

大切なのは、ただ大きな窓をつくることではない。

窓の先に何があり、そこまでにどのような距離があるのか。
その距離を丁寧に整えることで、実際の広さを超えた奥行きが生まれる。

住まいの中に、遠くを見ることのできる場所がある。

それは、慌ただしい日常からほんの少し離れ、心を解放してくれる余白になるのだと思う。

藤原昌彦

夏を告げる音

藤原の日記

今朝、今年初めてセミの声を聞きました。

梅雨が明け、本格的な夏の始まりです。

カレンダーを見る前に、耳が季節の変化を教えてくれる。
そんな瞬間が私は好きです。

住まいは、こうした季節の移ろいを感じられる場所であってほしいと思っています。

朝、窓を開けると聞こえてくるセミの声。
庭の木々が風に揺れる音。
夕方になると少しだけ涼しくなる空気。

冷暖房の効いた快適な室内も大切ですが、それだけでは季節は感じられません。

窓を開けたくなること。
庭に目を向けたくなること。
ふと耳を澄ませたくなること。

そんな小さなきっかけが、暮らしを豊かにしてくれるのだと思います。

建築は、ただ暑さや寒さを防ぐための器ではありません。

四季の変化を受け止め、人の感覚を少しだけ豊かにしてくれる場所でもある。

今年最初のセミの声を聞きながら、そんなことを考えた朝でした。

藤原昌彦

家具も、建築の一部

藤原の日記

私は北欧家具が好きです。

アトリエにもいくつかありますが、中でもお気に入りはCH24、通称Yチェアです。

もちろん、それだけではありません。

ハンス・J・ウェグナーをはじめ、ボーエ・モーエンセン、フィン・ユール、アルネ・ヤコブセンなど、多くのデザイナーが、時代を超えて愛される家具を生み出してきました。

私が北欧家具に惹かれるのは、デザインの美しさだけではありません。

木という素材を知り尽くした使い方。
細部まで丁寧につくられた加工技術。
そして何より、何十年経っても古さを感じさせない普遍性があります。

使い込むほどに木肌に艶が生まれ、小さな傷さえも、その家具だけの表情になっていく。

そんな姿を見ていると、「良いものは、時間とともに育つ」のだと感じます。

住宅も同じではないでしょうか。

完成した瞬間が一番美しいのではなく、家族の時間が積み重なり、庭の木々が育ち、床や柱に暮らしの痕跡が刻まれていく。

そうして少しずつ、その家だけの表情が生まれていくのだと思います。

だから私は、家具を単なるインテリアとしてではなく、建築の一部として考えています。

窓辺に置かれた一脚の椅子が、その家で一番好きな居場所になることもあります。

流行は、いつか過ぎていきます。

でも、本当に良いものは、時代を超えて愛され続けます。

北欧家具は、そのことを静かに教えてくれます。

私もまた、何十年先も暮らしに寄り添い、愛着を育んでいけるような、普遍性のある住まいをつくっていきたいと思っています。

藤原昌彦

人は、動くものに目を向ける。

藤原の日記

風に揺れる木々。
流れる雲。
雨粒。
鳥が飛ぶ姿。

人は本来、そうした動きに自然と目を向ける生き物なのだと思う。

昔の住まいでは、窓の向こうに庭があり、空があり、風景があった。
だから、ふとした瞬間に外へ視線が向かっていた。

その後、暮らしの中心にテレビが置かれるようになり、家族の視線は室内へ集まるようになった。

そして今、私たちの視線は、一人ひとりが手の中のスマートフォンへ向けている。

もちろん、それ自体が良い悪いという話ではない。

ただ、風に揺れる木々や、雲の流れを眺める時間は、以前より少なくなったように感じる。

だから私は、住宅にはもう一度、外へ視線が向かうきっかけをつくりたい。

庭の木が風に揺れる窓。
雨を眺められる軒先。
夕焼けに気づく小さな居場所。

そうした何気ない情景が、暮らしに静かな豊かさを取り戻してくれるのではないだろうか。

藤原昌彦

建築によって忘れてしまったもの

藤原の日記

古民家を訪れるたびに思うことがあります。

昔の人は、限られた材料だけで、驚くほど心地よい住まいをつくっていたということです。

茅葺屋根は、雨を防ぐだけではありません。
土壁も、ただ壁として存在しているわけではありません。

一つの素材に、いくつもの役割を持たせながら、風や光、湿気や熱と上手に付き合っていました。

そこには、自然に逆らうのではなく、自然を受け入れながら暮らす知恵があります。

現代の住まいは、性能も快適性も大きく向上しました。

それでも古民家に立つと、どこか懐かしく、心が落ち着くのはなぜでしょう。

もしかすると、私たちは便利さと引き換えに、暮らしの中の大切な何かを少しずつ忘れてきたのかもしれません。

だから私は、古民家をそのまま真似したいとは思いません。

建築によって忘れてしまったものを、建築で取り戻したい。

そんな住まいを、これからも考え続けたいと思っています。

藤原昌彦

小さな場所の豊かさ

藤原の日記

家づくりの話になると、広さや部屋数に目が向きがちです。

もちろん、広さにはゆとりがあります。
けれど、広ければ豊かになるかというと、必ずしもそうではないように思います。

昔の日本の家は、障子や襖でゆるやかに仕切られていました。

今のように壁や扉で完全に区切るのではなく、光や風、人の気配がほどよく伝わる住まいでした。

隣の部屋から聞こえてくる家族の話し声。
台所から漂ってくる夕飯の匂い。
庭を渡る風。
障子越しに見える明かり。

完全に見えるわけではない。
けれど、そこに誰かがいることを感じる。

そんな距離感の中で暮らしてきたのが、日本の住まいだったように思います。

茶の湯の世界には、「一畳十間」という言葉があります。

一畳ほどの小さな空間の中にも、十間もの広がりを感じることができるという意味です。

それは、単に視覚的な広さを表しているのではなく、人との距離や自然とのつながり、心の広がりを含めた豊かさなのかもしれません。

また、気配を感じながら暮らすことは、相手を思いやることにもつながっていたように思います。

襖一枚隔てた向こうに誰かがいるから、大きな音を立てない。

障子越しに明かりが見えるから、家族の帰りに安心する。

顔を合わせなくても、互いの存在を感じながら、少し気を遣い、少し譲り合って暮らす。

そこには、完全に一人になることでもなく、いつも一緒にいることでもない、日本人らしい距離感があったように思います。

住まいの豊かさは、広さや部屋数だけで決まるものではありません。

小さな場所であっても、庭とつながり、光や風が通り、人や自然の気配を感じられる。

そんな空間には、実際の大きさを超えた豊かさがあります。

私は、住まいとは面積を競うものではなく、人と人、人と自然との関係をやさしくつなぎ、心がゆったりと広がる場所であってほしいと思っています。

小さな場所の中で、人の気配を感じ、互いを思いやりながら暮らす。

「一畳十間」という言葉には、そんな日本人の豊かさが込められているように思うのです。

藤原昌彦