今日は、梅雨の中休みのような気持ちの良い一日だった。
青空が広がり、風も爽やかで、本当に過ごしやすい。
けれど、こんな日にふと雨の日のことを思う。
雨は憂鬱だと言われることが多い。
確かに建築の仕事をしていると、現場は止まるし、予定も変わる。
できれば晴れて欲しいと思うことも多い。
それでも私は、雨の日が嫌いではない。
アトリエ「南区の離れ」にいると、そのことをよく感じる。
軒先から落ちる雨粒。
雨に濡れた庭の木々。
樋を流れる雨の音。
いつも見ている庭なのに、雨の日には少し違って見える。
雨が降ることで、景色が静かになる。
時間もゆっくり流れる気がする。
晴れた日は外へ出たくなる。
けれど雨の日は、なぜだろう。
椅子に座って庭を眺めたり、本を読んだり。
少しだけ自分と向き合いたくなる。
住まいも同じなのかもしれない。
晴れの日だけが心地良いのではなく、
雨の日にも居たくなる場所があること。
雨音を聞きながら過ごせる場所があること。
そんな住まいは、きっと豊かな住まいなのだと思う。
梅雨の季節になると、そんなことを考える。
藤原昌彦
住宅の設計において、私は平面計画がとても大切だと思っている。
もちろん断面計画も重要である。
光の入り方や天井の高さ、空間の広がりは断面によって決まる。
けれど、それ以上に平面計画が美しくなければ、住まいは美しくならないと思っている。
平面計画は一般的に「間取り」と呼ばれることが多い。
しかし、私が考える「間取り」は、一般的な意味とは少し違う気がしている。
多くの場合、間取りとはLDKや洗面・脱衣室、寝室や子ども部屋といった部屋を配置し、動線を整理することだと考えられている。
もちろん、それも間取りの一つである。
だが、私が考えているのは、単に部屋を並べることではない。
人と人との距離。
居場所と居場所との距離。
部屋と部屋との距離。
室内と屋外との距離。
近すぎず、遠すぎず。
その関係性を考え、整えることが「間取り」なのだと思う。
「間取り」とは、「間」を「取る」と書く。
だからこそ大切なのは、部屋そのものではなく、その間にある関係性なのではないだろうか。
家族は、仲が良いほど常に一緒にいたいわけではない。
一人になりたい時もある。
けれど、完全な孤独を求めているわけでもない。
どこかに人の気配を感じながら、自分の時間を過ごしたい。
私は、住宅の設計とは、その距離を整える仕事だと思っている。
そして、その距離を最も色濃く表すのが平面計画なのである。
だから私は、間取りを大切にしている。
藤原昌彦
いつからか、夜が明ける前に目覚めるようになった。
私はこのうつろいゆく朝の時間が好きだ。
バウムとアーキの二人を連れて散歩に出かける。
まだ薄暗く、景色は夜の名残を残している。
けれど、少しずつ空が明るくなり始める。
鳥の声が聞こえ、
風が動き、
木々の輪郭が見え始める。
連れている二人は、そんなことにはお構いなしで、ちょこちょこと歩いている。
朝日は一瞬で昇るわけではない。
暗闇から明るさへ。
その間には、ゆっくりとした移ろいがある。
私は、その時間がとても心地良い。
完全な夜でもなく、
完全な朝でもない。
その境目の時間には、不思議な静けさがある。
建築を考えていると、
この朝の景色がふと頭をよぎることがある。
明るさだけではなく、
暗がりだけでもない。
そのあいだにある豊かさ。
私は、そんな時間を感じられる住まいに惹かれるのかもしれない。
藤原昌彦
みんなで集まって、にぎやかに過ごす時間は楽しい。
けれど、ときには一人になりたい時もある。
誰もいない場所に身を置くと、最初は気楽なのだが、しばらくすると不思議と寂しさを感じる。
一人にはなりたい。
けれど、人の気配は感じていたい。
気配を感じると、なぜだか安心する。
私は、住まいにとってこの「気配」がとても大切だと思っている。
気配とは、人と人との距離だけではない。
庭の木々が風に揺れること。
台所から聞こえる食器の音。
障子越しの光。
時間の移ろい。
そうしたものもまた、気配の一部である。
近づきすぎれば「存在」となり、遠ざかりすぎれば「気配」は消えてしまう。
人は、人そのものを求めているのではなく、気配を求めているのかもしれない。
完全につながりたいわけでもない。
完全に一人になりたいわけでもない。
気配を感じながら、自分の時間を過ごしたい。
住まいとは、その絶妙な距離を受け止める器なのだと思う。
家族とのあいだにある距離。
庭とのあいだにある距離。
外の風景とのあいだにある距離。
その「あわい」に気配が宿るとき、住まいはただの箱ではなく、心の居場所になるのではないだろうか。
藤原昌彦
住まいの中には、さまざまな居場所があります。
私は、木漏れ日の差し込む場所が好きです。
縁側のような場所も好きですし、庭を眺めながら過ごす時間も好きです。
ほのかに薄暗い場所にも、なぜか惹かれます。
考えてみると、私の好きな居場所はどれも「あわい」にあります。
完全な屋内でもなく、完全な屋外でもない。
明るすぎず、暗すぎもしない。
閉じてもいなければ、開きすぎてもいない。
そうした場所に身を置くと、不思議と心が落ち着き、豊かな気持ちになります。
人は、本来「あわい」の中で生きているのかもしれません。
朝と夜のあわい。
季節とうつろいのあわい。
人と人とのあわい。
自然と暮らしのあわい。
私たちの日常は、はっきりと分けられるものばかりではなく、その中間にある曖昧さの中で成り立っています。
だからこそ私は、建築の中にも「あわい」が必要だと思うのです。
私が設計する住宅は、内と外をきっちりと分けるのではなく、そのあいだにある居場所を大切にしています。
光がにじみ、風が抜け、庭の気配が感じられる場所。
そこは単なる通路でも、部屋でもありません。
人の感情や時間を静かに受け止めるための居場所です。
建築とは、風土と暮らしのあわいを整える行為なのかもしれません。
藤原昌彦
私は均質な空間に、少し息苦しさを感じることがあります。
もちろん、明るく快適で、どこにいても同じ環境で過ごせることは悪いことではありません。
むしろ現代の建築が目指してきた大切な価値の一つだと思います。
けれど、なぜか長く居たいとは思えない。
なぜだろうか。
考えてみると、均質な空間には「揺らぎ」が少ないからではないかと思うのです。
あるいは、時間の流れが見えにくいからかもしれません。
人は無意識のうちに、変化するものに惹かれています。
風に揺れる木々。
ゆっくりと流れる雲。
木漏れ日。
移ろう光。
そこには常に小さな変化があり、静かに時間が流れています。
一方で、均質な空間は変化が少ない。
整っている。
快適である。
けれど、その状態がどこまでも続くことで、知らず知らずのうちに緊張感を生んでいるのかもしれません。
自然素材が心地よく感じられるのも、そのためでしょう。
木には一本ごとに異なる木目があり、色味にも個性があります。
左官壁も同じです。
均一に見えても、人の手によるわずかな揺らぎが残っています。
そうした不均一さは、空間に奥行きや表情を与え、私たちの感覚を静かに刺激してくれます。
開口部のあり方も同様です。
ただ大きな窓を設ければよいわけではありません。
その先に何があるのか。
風に揺れる樹々があるのか。
季節ごとに表情を変える庭があるのか。
空の移ろいを映し出す風景があるのか。
そうした変化を受け止める対象があってこそ、窓は時間を映す装置になります。
均質な空間が苦しいのは、快適性が足りないからではない。
そこに時間の流れや自然の気配、そして人の感覚を受け止める揺らぎが少ないからなのかもしれません。
私は建築の中に、そうした揺らぎを残しておきたいと思っています。
それは不便さをつくるためではなく、人が時間を感じながら豊かに暮らすために必要な余白なのだと思うのです。
藤原昌彦
余白について考えることがある。
暮らしの余白。
時間の余白。
空間の余白。
光の余白。
私たちは日々、様々な余白の中で暮らしている。
一方で、余白には「無駄」という意味も含まれている。
必要以上の空間。
使われない時間。
効率だけを考えれば、省いてしまってもよいものかもしれない。
もちろん、無駄をなくし、効率よく物事を進めることは決して悪いことではない。
しかし、人が暮らし、生きていく上では、その「無駄」と思われる部分こそが大切なのではないかと思う。
例えば、縁側やデッキに座って庭を眺める時間。
木漏れ日を眺めながらぼんやり過ごす時間。
目的もなく窓の外を見つめる時間。
それらは効率だけで考えれば無駄な時間かもしれない。
けれど、その時間があるからこそ気持ちが整い、心にゆとりが生まれる。
余白とは、無駄ではなく、余裕やゆとり、そして豊かさなのだと思う。
効率や合理性が求められる時代だからこそ、人が人らしくあるために、余白は必要なのではないだろうか。
藤原昌彦
樹々の葉が生い茂る季節になると、なぜか木の下に座りたくなる。
屋根のように完全に覆われているわけではない。けれど、不思議と落ち着く場所である。
葉と葉のあいだから差し込む光は、地面や壁に模様を描く。
風が吹けば葉が揺れ、その隙間から漏れる光もまた形を変える。
同じ場所にいても、同じ景色はひとつとしてない。
そこには時間があり、風があり、季節がある。
私は、木漏れ日の魅力はこの「うつろい」にあるのではないかと思っている。
均一な光ではなく、刻々と表情を変える光。
木漏れ日は、ただ空間を明るくするためのものではなく、光そのものが風景の一部として存在している。
そしてもう一つ、木漏れ日には安心感がある。
樹々の葉がつくる屋根の下で守られながら、外の空気や風を感じることができる。
そこには、開放感と安心感が共存している。
だからこそ人は、木陰に身を置きたくなるのかもしれない。
木漏れ日は、私たちに時間の流れや自然のうつろいを感じさせながら、人の感覚を静かに整えてくれるのである。
藤原昌彦
幼少期、実家の縁側は、自分にとって心地の良い居場所でした。
遊ぶ時も、勉強をする時も、昼寝をする時も、気がつくと縁側で過ごしていた記憶があります。
暑い日は窓を開け放ち、風や光、庭の気配を感じながら過ごしていました。
最近では、キャンプを楽しむ機会も増えました。
完全に屋外へ身を置き、自然の中で過ごす開放感は、とても気持ちの良いものです。
その一方で、完全に屋外であるがゆえに、どこか守られていない不安感も感じます。
キャンプのように一時的に過ごすには心地良いのですが、日常の暮らしとなると、やはり安心感のある居場所が必要なのだと思います。
だからこそ、縁側や軒下のような「半戸外」の存在が大切なのではないかと感じています。
完全に外でもなく、完全に内でもない場所。
守られている安心感がありながら、風や光、気配が静かに通り抜けていく。
私は、こうした“あわい”のある居場所に、人は本能的な心地よさを感じているのではないかと思っています。
幼少期、実家の縁側が自分の居場所であり、心地の良い居場所でした。
遊ぶにも、勉強するにも、昼寝をするにもこの心地良い居場所で過ごしていた。
暑ければ窓を開け放ち、屋外を感じながら楽しんでいました。
最近では、キャンプを楽しみで、完全に屋外に身を置き全開放する楽しさがある反面、完全に屋外のため守られない不安感が強くなります。キャンプのような一時的な場合は良いのですが、暮らすとなると一定の安心感が必要になってきます。
暮らしの「場」に縁側や軒下空間があることは、完全に外ではなく、完全に内でもない場所が大切なのではないかと思っています。
守られている安心感がありながら、光や風、気配が静かに通り抜けていく。
私は、こうした”あわい”のあるような居場所が、人が本能的な心地よさを感じているのではないかと思っている。
藤原昌彦
なぜか、心惹かれる空間がある。
特別な仕掛けがあるわけでもなく、
強いデザインがあるわけでもない。
ほのかに暗く、
光が届きそうで届かない場所。
そのような空間に身を委ねると、
不思議と心が落ち着いていく。
光と闇の「あわい」に、
静かな居場所が生まれる。
光のグラデーションが生まれ、
うつろいの中に、やわらかな暗がりがつくられる。
すべてが見えないことで、
意識は外側ではなく、内側へ向かう。
だからこそ人は、
暗がりの中に安心感や奥行きを感じるのかもしれない。
藤原昌彦